2006年度1学期後期「実践的知識・共有知・相互知識」    入江幸男

第12回講義 (July 4. 2006

 

§5 共有知の存在証明(つづき)

 

5、私的言語批判からの共有知の必要性(証明未満)

 

Wittgensteinがいうように次の二つの主張が正しいとすれば、そこから私的言語の不可能性が帰結するだろう。

 

「規則に従っていることと、規則に従っていると信じていることは、別のことである」

「私的な言語とは、その言語の規則をその人だけが知っているような言語である」

 

その言語の規則をその人だけが知っているのならば、その人が規則に従っていると信じているときに、実際に規則に従っているのか、それとも規則に従っていると信じているだけなのかの区別ができない。

 しかし、当人は、規則に従っていると(その理由は我々にはわからないが)信じているのだとすると、当人は、その私的な言語が成立していると信じているのである。

第三者からみて、それを判断することはできない。なぜなら、定義によって、第三者は、その規則を知らないはずだからである。

ただし、当人が、あるときに規則に従っていると思っていたのだが、後日思い出してみると、規則に従っていなかったとわかる(信じるようになる)こともありうることである。このとき、彼にとっては、以前に私的な言語を話していたと思ったのは、間違いであったということになる。もちろん、私的な言語の場合には、常にこのように事後的に間違いが判明することがありうるだろう。

 

 ところで、「言語が公的であるとは、その言語の規則を多くの人が知っていることである」としよう。このとき、「ある言葉xの規則を多くの人が知っている」が正しいならば、それは公的な言語であるが、しかし、これが正しいということが、私だけの信念に過ぎないとすれば、どうなるのだろうか。このときには、「その言葉のある用法が規則にしたがっていることは、単に私の信念ではなくて、多くの人の認めることである」ということが、単に私の信念であるとすると、その言葉は、私的な言語であるだろう。他者の言語が超越論的自我である私によって構成されているのだとすると、すべての言語は私の私的言語になってしまうだろう。

 言語が成立するためには、発話についての共有知がなければならないということになるだろう。

 

(注:<規則にしたがっていると信じること>は如何にして可能だろうか。クワスのような可能性を考慮するとき、また、語の定義ができず、家族的類似性しか持たないのだとするとき、語の使用の規則にしたがっていると信じることは、如何にして可能だろうか。)

 

6、問答関係からの共有知の存在証明 その1(証明未満)

(1)問答が前提する共有知

ファイル「2004ss08question」からの引用

「 A「これは、ナナカマドですか」

B「はい」

この二つの発話が問答であるための必要充分条件は、次のようになるだろう。

1、Aの質問が、Bに向けられていること。

2、Bの発言が、Aに向けられていること。

3、Bの発言が、Aの上の発言に対する返答として発話されていること。

4、1と2と3が、AとBの相互知識ないし共有知であること。

なぜ、3が必要かといえば、Aが上の発言の直前あるいは直後に「それはバラですか」と発言していたとすると、Bの「はい」は、その質問に対する答えである可能性もあるからである。」

 

(2)問答によって成立する共有知

  a「あなたはpを知っていますか」

  b「いいえ知りません。なぜならpではないからです」

  a「pではないのですか。私はpだと思います」

  b「いいえ、pではありません」

ここで、aとbの意見は食い違っているが、

  c「aさんはpだと主張し、bさんはpでないと主張するのですね」

と問われたならば、aもbも「はいそうです」と同意するだろう。問答が成立しているためには、<疑問文の発話と平叙文の発話が、質問とそれに対する返答の関係にある>ということを知っている必要がある。つまり、このことが、両者の共有知になっている必要がある。より詳細に言えば、<aのある問に対して、bがしかじかに答えた>という事実が共有される必要がある。そうしなければ、それにつづく会話がうまくつながらない。

 

(3)コミュニケーションの不一致は生じても、世界は底割れしない。

<問答がスムースに進行しているかぎりで、我々は共通の知識をもっていると想定できる。食い違いが生じたときに、我々はそれが想定に過ぎなかったことに気づく、そしてその時点でまた想定を修正して、コミュニケーションを続ける。このように理解するときに、コミュニケーションは、個々人の共通知識の想定だけで説明できる>このようなコミュニケーション理解は、表面的なレベルでは正しいが、原理的にいえばおそらく間違いである。

 食い違いが生じて、その時点で共通の認識を修正するとき、別のまだ保持されている共通認識にもとづいて、その修正をおこなう。つまり、このようなプロセスでは、共通認識がまったく失われることは想定されていない。

 食い違いが生じたときに、食い違いが生じたことがわかるのは、理解が部分的に一致しないからである。それが可能になるのは、より基礎的な部分において理解が共有されていることを前提している。もし理解が全面的に一致しないのならば、どういうことになるのだろうか。相手が言語を話しているのかどうかすらわからなくなるのかもしれない。相手が存在していることすらわからなくなるのかもしれない(『惑星ソラリス』のように)。

 

 (もちろんこれでも、共有知の存在証明としては不十分である。)